2014年1月31日金曜日

「先生」であることの「畏れ」

小学校教諭のY・Sです。

今日は10年ほど前のある朝の教室でのことを思い出して書きます。

 ある日,漢字練習の宿題をなかなか出さない女の子がいました。いつも忘れずに出す子なのにおかしいなと思って,「○○さん,宿題まだ出てないんだけど・・・。」と声をかけると,「途中までなので・・・。」という元気のない応えが。「途中でもいいから出して。」と言うと,その子は,伏し目がちに恐る恐るノートを持ってきました。途中までといっても,四分の一くらいしかやっていないノートを見て,訳を聞き,理由次第では叱らなければと思った瞬間,ふと「うん,よくやってきたね!字もきれいだ。」と声をかけました。それを聞いてやっと気持ちが和らいだのか,その子がにこっと笑顔を見せたとき,私はあることに気がついてこう語りかけました。
「お母さんが入院していて大変だね。弟さんや妹さんのお世話をしながらよくがんばってこれだけ書いてきたね。偉いぞ!」と。そのとたん,いきなり大粒の涙を流してその子は泣き出してしまいました。
 次の日,その子は宿題をきちんと最後までやってきました。

 もし,あの時その子の家庭の事情に気付かず叱ってしまっていたら,心に大きな傷をつけてしまったかも知れません。
 

 「先生」という仕事はほんとに「畏れ」多い仕事です。

2014年1月27日月曜日

脚下照顧!

 生長の家創始者,谷口雅春先生は,そのご著書『静思集』の序文に次のようなお言葉を書かれています。『人間は自分で自分の本体を忘れていることがある。そんなときに生活がくずれるのである。自分を物質だと思っているとき生活がくずれる。自分を肉体だと思っているとき生活がくずれる。自分を「先生」だと思い上がったとき生活がくずれる ー中略ー 先生と云われると人を怒鳴りつけるようになる人もある。先生と云われると,寝床をあげぬようになる人もある。先生というものは豚ではないのである。豚なら廊下をはかなくとも,寝床をあげなくとも,感謝しなくとも,誰も何とも云わない。「先生」と云われることは余程危ないことである。』 非常に重たく,魂が震え心が凛とするお言葉であると思います。私は時々このお言葉を折りに触れて思い出し,初心に還ることにしています。 

2014年1月25日土曜日

子供たちとともに実践しよう環境保全活動


高校教諭のK.Oです。

本校のエネルギー等使用量及びCO2排出量の調査と発表

課題研究という授業で私の班の生徒が、本校で使用している電気・ガス・上水道・灯油・重油について、過去5年分を調べることにしました。結果を表やグラフにまとめ、各年度との比較や一般家庭との対比で考察してみると、膨大なエネルギーの使用とCO2の排出量が分かりました。 

これが地球温暖化による環境破壊に無関係でないことや、北極・南極の氷の融解、ツバルの水没等のことも学習していきました。 

そして「みんなで暖房の無駄を無くする省エネや、教室の移動時に消灯する節電を心がけること等が、地球温暖化の防止につながる」とまとめてくれました。このことを全校生徒・職員・保護者・来賓・教育委員会主事、約1000人の前で発表しました。
                 
環境・資源・平和の指導を!
   生長の家総裁・谷口雅宣先生は、『足元からの平和』の中で次のようにお説きくださっています。

化石燃料を使い続けることは環境にマイナスであるばかりか、資源問題を深刻化するとともに、希少資源をめぐる各国の奪い合いに発展する恐れもある。また、ツバルの例のように、環境難民を生み出す可能性もある。そういう意味で、「環境」と「資源」と「平和」とは皆、つながっているわけですよ。(同書、202ページ)
 
  「教え子を戦場に送るな」とのスローガンを耳にすることがありますが、谷口雅宣先生は戦場をつくらない、根本的な平和への道をお示しくださっています。戦場があって、自分たちだけが戦場を避ける方法とは異なるのです。真の平和実現のために、環境・資源・平和の関係と、その問題解決に向けての指導が必要です。 

生徒に「人間・神の子」の真理を伝え、個性・使命・天分の開発を行うとともに、環境教育を実践しましょう。身近にできるところからはじめましょう。

子供たちに美しく平和な地球を!

                                     K.O

 

2014年1月20日月曜日

試験監督で疲れないために

大学教授のM. Y. です。

今年も大学入試センター試験が行われました。会場校になっている大学では教員が試験監督を務めますが、その監督業務は、大学入試センターによって示された膨大かつ詳細な監督要領に沿って行わなければならないので、かなり気を遣います。

今回、私は初日の試験監督を担当しました。ご存知のように、初日には英語リスニング試験があります。また、1時限目の「地理歴史・公民」で「2科目受験」をする受験生の部屋に配置されたので、朝早くから日没後まで、長時間にわたる監督業務となりました。

ですので、「さぞお疲れになったことでしょう」と思われるかもしれないのですが、実は私の場合、幸いなことに、そんなに疲れることなく、とても爽やかな気持ちで務めることができました。

おそらくそれは、谷口雅春(生長の家創始者)著『伸びよ生命の子』(日本教文社)の「疲労を感じない力の生かし方」を読んでいて、それを多少なりとも実行できたからだったと思います。

たとえば、この本の33頁には、「愛はすべてを癒す」と題して、次のように書かれています:

---〈以下、引用〉---
仕事をして、うまくできなかったり、その仕事に故障が起ったり、その仕事で怪我をしたり、仕事の結果健康を害したりするのは、仕事に対する愛が足りないか、仕事に対して恐怖心が伴っているのです。愛しさえすれば、仕事はあなたに害を与えるものではありません。犬でも愛する人には咬みつきはいたしません。恐れる者には犬も咬みつくのです。この仕事をしたら健康を害するかもしれないとか、こんなに夜業を続けたら、衰弱して肺病になりはしないかとか、取越苦労が病気の因(もと)です。恐れずに、仕事と勉強に愛を感じ、働かせてもらうことに、勉強させていただくことに、喜びと感謝をもって勇敢に生きて行く時には、人間は働くほど健康になるのです、元気になるのです、病気だってかえって治ってしまうのです。
---〈引用終わり〉---

こうした愛の心を持てるように私が行ったことは、「受験生の身になって考える」ことでした。自分自身もかつて受験生でしたから(もう二十五年以上も前のことですが)、その時のことを思い出すと、大学受験は受験生にとって人生最大の重要な時であることが分かります。

それを思うと、口にこそ出して言えませんが、心の中では「頑張ってね〜」「よく出来るといいね〜」と念じたくなります。

そう念じながら、問題冊子や解答用紙の配布や回収を行ったり、解答時間中も受験生を見守ったりしていると、監督業務がそんなに苦にはなりませんでした。やはり愛の心こそが生命の糧なのだと思います。

大学教授 M. Y.

2014年1月19日日曜日

「拝む」ということ

小学校教諭のY・Sです。

今日は,私が教師になってからずっと続けてきた子どもを既によいと信じることのできる「奥義」をご紹介します。
 

 「奥義」というと何かとてつもなく難しいように聞こえますが,誰にでもできることです。それは子どもを「拝む」ことです。よくしようとして「なんとかその悪い習慣や心を改めてください」と懇願するのは本当に拝んだことになりません。「既によいからそのよさを観じて拝む」のです。具体的には,学級の集合写真を机の前やよく見えるところに置き,1人一人の子どもに向かって,「○○さん,あなたはすばらしい!何でもできる強い子よい子です。将来社会の役に立つ国の宝です。」というような思いつくよいことを語りかけるのです。自宅に神棚がある方は神棚の下に写真を置くともっと効果的です。

 これを続けていくと子どもがよくなるのではなく,私自身の子どもを観る心が変わります。まさに「見られるものは見る人の心の影」「主・客同体」です。心理学ではリップスが「感情移入」という言葉で表現していますが,それ以上の「観る力」であり「想像力は創造力」であると言えます。

 かの有名なアクションスターであり武道家でもあったブルース・リーの名台詞に
   「Don't think feel !」=「考えるんじゃない。観じるんだ。」
というのがあります。さすがに一つのことを極めた人の言葉ですね。

 どうか子どもの「よさ」を観じ続けてください。それも教師の尊い仕事の一つであると私は考えています。

ー立ち向かう 人の姿は鏡なり 己が心を 映してや見むー   ー黒住 宗忠 公ー

2014年1月13日月曜日

楽しかった卒論指導

大学教授のM. Y. です。

この年末年始は卒業論文提出の時期でした。私の大学では計4日間の提出期間だったのですが、私のゼミ生8名は、その全員が最終日を待つことなく、三日目までに順調に提出してくれました。
      卒論の出来具合としては、優秀なものもあれば、合格レベルに何とか達しているだけのものもありました。ですが、直前になって慌てふためくことなく、全員が余裕を持って提出できたことは、指導者として、とても安心できることでした。
          そのように安心して導けた要因は何だったのか? それには幾つかの要因がありましたが、今回は、その中で最も大きな要因だったものを書かせていただきます。それは「明るさ」です。
              3年生の時から約2年間かけての指導でしたが、ゼミの授業では、いつも明るく進めることを心掛けていました。たとえ学生が失敗をしたとしても、それを責めるのではなく、明るく笑い飛ばして、激励鼓舞していくようにしていました。そのおかげで、私のゼミ学生たちは皆、明るく伸び伸びと取り組んでくれていたように思います。
                  前生長の家総裁・谷口清超著『愛と希望のメッセージ』(日本教文社)という本では、「楽しく働こう」と題して、次のようなエピソードを紹介されています。
                    ---〈以下引用〉---
                          昭和五十九年の甲子園の野球では取手二高が優勝した。その原因の一つに「明るさ」があった。木内監督の指導がよく、いつも野球をたのしむという気分が充ちあふれていたので、四対四の同点になり、PLとの戦いが延長されても心配せず「延長できてうれしい」といった気分だった。従って、新聞評にも「笑って勝ってしまったようだ」と書かれたぐらいである。
                              何事をやるのでも、たのしく生々と、のびのびやることが大切で、これは光明化運動をやる時も同様である。いつも悲壮感を漂わせ、しかめつらをし乍(なが)ら、ハチマキをしめ歯をくいしばっていると、実力が出て来ないし、その暗い心が暗い運命を引きよせるのである。野球でいうと、ホームランを打つところが、わずかの差で三振に打ちとられるといった結果に終る。
                                〔中略〕
                                      あなたの勤めている仕事場で「たのしく働く」のはとてもよい事で、それでこそ仕事もうまく行く。そのあなたの明るさは、単にあなただけにとどまらず、あなたの部下や上司にも拡大するからだ。あなたの家庭にもひろがり、妻や子が生々とする。夫や父の明るさは一家の運命に関わる一大事である。何をやるにしても、明るく、たのしくやることだ。ことに仕事は、楽しみながらやることによって、大成するのである。〔後略〕
                                        ---〈以上、『愛と希望のメッセージ』32〜34頁から引用〉---
                                          この引用部分の最後の段落に書かれていることは、大学のゼミにおいても、まさに当てはまることでした。教員の明るさが学生たちに広がったことで、ゼミ学生たちはみんな、実に伸び伸びと、明るく楽しく、意欲的に卒業論文に取り組んでくれました。
                                              ですので、大学教員の皆さんには、まず自分自身が「明るく楽しく働く」ことをお勧めします。それが「楽しい卒論指導」につながりますので…。

                                              2014年1月4日土曜日

                                              子どもを「良くしてはいけない?」


                                               私がまだ新米教師の頃,ある先輩の先生から「子どもをよくしようとしてはダメだぞ。」という助言を受けて考え込んだことがあります。私たち教師の仕事は子どもたちを“心身共に健康”に成長させることなのに…?そのとき私は変な猜疑心を抱きました。
                                               

                                               学校を単位とする教育界も大きな組織です。組織には当然規則・規範がありますが,いわゆる“不文律”も存在します。学校にもそんな不文律があるのだろうか?事実,「自分の学級は,1年間,問題なく普通に無難に過ごして次の学年の担任に引き継げばいい」そう割り切っている先生もいないわけではありません。でも,「私にはそんな“器用なこと”はできないなぁ。」としばらく悩みました。また,子どもたちに“日本人としての誇り”をもたせることをタブーとする「せんせいたち」がいることも否めません。
                                               

                                               それでも,私は自分の信念を貫いて精一杯子どもたちと向き合ってきました。時には,「Y先生のクラスの子どもたちはどうしていつも立派なの?」とか「Y先生が受け持つと問題児が問題児でなくなるのはどうしてかな?」などという嬉しい噂をされたこともあります。ある年などは,学級崩壊したクラスを引き継ぎ,1ヶ月ほどで“普通”の学級にしてしまったために,前年度の担任から嫉妬されたこともありました。「やはり普通に,無難に子どもたちと接するのがいいのかなぁ。」そう思ってスランプに陥ったこともありました。
                                               
                                               

                                               ところがあるとき,私が教師になってからずっと続けてきたことが,その先輩の先生の言葉の真意だったことに気付きました。確かに「子どもをよくしようとしてはダメ」なのです。「子どもは既によい」のです。それを心の底から信じるのが教師の役目であり,同時に自らの研修なのです。教育とは何とすばらしく尊い仕事なのかをあらためて自覚した瞬間でした。
                                               
                                               

                                               次回は私が教師になってからずっと続けてきた子どもを既によいと信じることのできる「奥義」を披露したいと思います。お楽しみに!

                                              2014年1月2日木曜日

                                              年頭の一首

                                              読者のみなさま,あけましておめでとうございます。
                                              小学校教諭のY・Sです。
                                              新年のご挨拶の代わりに和歌を一首詠みました。自己流で時々詠んでいますので,その道のプロの方が見れたなら恥ずかしいのですが。
                                               

                                               幼な児の 清き瞳に宿る灯を 
                                                          拝しつ今日も 教壇に立つ

                                               本年もどうぞよろしくお願いいたします。